怒りの消し方

この記事をお読みの方は自分自身の怒りの問題で困っておられるのでしょうか?あるいは自分ではなく自分の愛する人の怒りの問題でしょうか?いずれにせよ怒りの問題を根本的に解決するために、役立つと思う情報をお届けしたいと思います。
なぜなら、怒りの問題は多くの人を苦しめる人生の根本問題でありながら、その正しい対処法がほとんど知られていないと思うからです。そのために私自身も長く苦しみ続けてきた問題です。

怒りを消すための根本原理

怒りを消すためにはまずその原因を知る必要があります。怒りの原因を見事に表現した言葉をご紹介しましょう。

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれわ、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれわ、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の心理である。

これは『ダンマパダ(法句経)』と呼ばれる原始仏教の経典に伝えられるお釈迦様のお言葉です。
非常に簡潔ですが、怒りを消すためのエッセンスがここにはっきり書かれています。
それは、怒りとは、ある種の思考から生じるということです。
どのような思考でしょうか。一言で言えば、自分が不当に害された、という思いです。
ですから怒っている人は必ず、怒っている自分が正しいのだと思っています。
相手が間違っているのだと思っています。
相手に不当なことをされた、その思いを自分の中で反復し、増幅し続ければ、いずれそれは暴言や暴力となります。
怒りが、思考から生じることは事実です。
例えば、ある人が誰かに何かの言葉を言われて腹を立てたとしましょう。
同じ言葉(あるいは音)を聞いても、石や金属が、あるいは動物が腹をたてるということは決してありません。
心のある人間が、言葉を聞き、意味を解釈し、それについて不当なことをされたという被害者意識を抱く時にだけ、怒りが生じることがはっきりわかると思います。
ここで大切なことは、それが本当に不当なことであったかどうかということではありません。
ある社会的通念のもとではそれが不当と判断されることもあれば、そうでないこともあるでしょう。不当かどうか実は相対的なものです。

不当かどうか、極論すればそれは自分がそう思うからそうなのだ、ということにすぎません。自分が思考を通して作り出した1つの物語、フィクション、解釈、判断なのです。
大切なことは、それが本当に不当がどうかとうことでなはく、それが本当であろうと本当でなかろうと、そう思えば必ず怒りが生じるという法則です。
このように怒りの原因をはっきりと見極めることができれば、怒りの消し方もはっきりわかります。
それは、自分は不当なことをされたという被害者感情を生み出す、自分の思考・判断に気づいて、それを手放すことです。
その思考(思い込み)は永遠に自分を苦しめるものだという法則をはっきり認識して、捨てるのです。
これが怒りを消すための根本原理です。
それでもその思考を手放せないとしたら、怒りが自分を苦しめ滅ぼそうと、それでも相手も苦しめ滅ぼしたいというところまで怨みが募ってしまっています。
しかし人生において大切なことは何より自分が苦しまないこと、人を苦しめないことでしょう。
苦しみたくない、苦しみを終わらせたい、という誰もの心に備わっている本当の願いに目覚め立ち返ることが、思考を手放すための出発点となります。この願いを目覚めさせるには慈悲の瞑想が特効薬です。狂ってしまった心を慰め、本来の心に回復してくれるでしょう。

さて思考から怒りが生じる法則から考えると、怒りに対してやってはいけないアプロ-チは、ただひたすらそれを押さえつける、我慢する、抑圧するというやり方です。怒りを叩き潰そうとする方法とも言えます。
確認しましょう。怒りというのは結果です。原因はそれを生み出す被害者的な思考です。
結果である怒りを一時的に押さえ込んでも、原因である思考が存在し続ければ、怒りは常に生み出され続けます。
やがて抑えがきかなくなります。
ある意味では、下手に我慢強い人の方が、より大きな怒りを溜め込んでしまうでしょう。
怒りという炎を押しつぶそうとするのではなく、その燃料である思考を断ち切れば、怒りは必ず消えるのです。
燃料があれば炎は燃え続けるのです。
原因の方を断ち切りましょう。

怒りを消す実践方法

怒りを消す実践は、自分の思考、怒りに「気づく」こと、そして思考を「手放す」ことです。
「気づく」ことと「手放す」こと、つきつめればこの2つだけです。
実際にはほとんど全ての人は自分の怒りに完全には気づけていないんだと思います。
怒りが生じた時、体は、心にどのような感覚が生じているでしょうか。
私の場合、激しい怒りの時に自分を観察すると、怒りは心というより体の変化として感じられます。それは大変不快な状態です。その不快感から逃れるために、様々な方法で自分が怒りを爆発させてきたことに気づきます。言ってみれば、体の中に生じたその苦しみを紛らわせるために、怒りの言動という別の刺激(苦しみ)を引き起こして、一時しのぎをしていたのです。

怒りの時の心身の変化は人様々でしょう。自分自身を観察して知る必要があります。
さて外に表現される以前の、心身に生じた怒りのエネルギーという苦痛に対処するには、それが過ぎ去るまで(ピークアウトするまで)観察し続ける経験が必要です。どんな感情であれ、思考であれ、常に微妙に変化しています。そしてある程度の時間が立てば必ず消えます。そう、どんな苦痛であっても、必ずやがてそれは消え去るということを体験として積み重ねることが、怒りが生じた時に踏ん張る力となります。場数が必要とも言えます。

怒りをはじめとする苦しみは嫌なものです。しかしそれがあるが故に私たちは、真理を学び、成長することができることも事実です。苦しみが来たら、真実を教えてくれるチャンスが来たと思って、「ありがとう」といって受け入れなさいという教えがあります。苦しみから逃げるのではなく、学びのチャンスがやってきた、と積極的に考えるよう頭を切り替えることは、強い人間になっていくためにとても有益だと思います。

怒りの時に自分の思考を観察すれば、確かに被害者妄想が生じていることもわかるでしょう。プライドや恐怖が邪魔をしてすぐにはわからないかもしれませんが、やがてわかる時が来ます。自分の感じていた、悲しさ、切なさ、心細さ、痛み、そういうものが怒りの正体だとわかってきます。その時は、自分自身をいたわってあげていいのではないでしょうか。誰もいたわってくれなかったとしても、そうであればなおさら、ご自身をいたわって頂きたいと思います。それが癒やしとなり、解放となり、新しい力に変わると思います。

さて、怒りに特化して、実践を通して私が学んだことを書いてきました。
これらのことを自ら体得していくためのベースは瞑想です。
瞑想とはまさに自分の体、感覚、心、思考において起きてくる全てのことに「気づき」、「手放していく」練習だからです。
いわば基礎体力トレーニングです。正しい方法で続ければ必ず上達します。それは筋トレすると筋肉がつくくらい自動的なことです。
地道に続けるだけで、自分自身の怒りが減っていくこと、それを消せる成功体験を積み重ねられることが実感できるでしょう。失敗してしまったと思っても、立ち止まらず、悔やまず、あきらめず、また挑戦を続けましょう。失敗も成功も大切な学びだと思います。
そこまで来たら、あとはもう、ぼーっとして気づきを失う瞬間がないように注意することだけの問題になります。これは一生続く修行です。お釈迦様の遺言である「不放逸」です。

最後に、これまで述べてきたことを、プラユキ・ナラテボー師が『自由になるトレーニング』ではるかに簡潔明瞭に教えて出さっている文章を引用します。

(怒りを手放す)ポイントがあるんですよ。本の中で紹介していますが、早めに手放す。小さいうちに手放す。怒りというのは、最初の小さなイライラ、つまりちょっと気に障るレベルの怒りに始まって、どんどん我知らずのうちに物語化して、怒りや恨みになったりする。それが相手に対する罵詈雑言や暴力にもなってしまうわけです。
ですから、なるべく早い段階で怒りの炎を消していくトレーニングをすればいいんですよ。その鍵になるのが、仏教用語でいうところの「念」と「捨」。すなわち「気づく」ことと「手放す」ことです。そうすると、「イライラムカムカ・・・○×▲!」だったのが、「イライラムカムカ」で済ませられるようになり、やがて「イライラムカムカ」 → 「イライラ」 → 「イラッ」 → 「イッ」で終えられるようになっていきます。
またそういった訓練を続けていくうちに、心のプロセスがよく観えてくるようになります。「そうか、怒りの奥には自分なりの願いや期待があるんだな。でもそれが満たされずに心のい悲しみや切なさが生じてくる。そういったネガティブな感情を自分自身で受け止めきれないとき、他者への怒りという形で発散してしまうんだな。ふむふむ」といった感じです。こうした洞察によって、怒りのパワーを智慧や慈悲に昇華していくことができるのです。仏教でいう「智慧」は、知識とは異なり、心の観察によって得られる体験的な理解です。

私自身とこれを読まれた方が怒りの苦しみから少しでも早く解放されることを願っています。

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