人生を通しての勉強との付き合いを考えると、学校(最終学歴となる学校)を卒業する以前と以後に大別できる。卒前学習、卒後学習と呼ぶことにしよう。
学習の構造はインプットとアウトプットという観点から分析できるが、卒前と卒後ではいずれのあり方も大きく変わる。
卒前学習におけるインプットの特徴は、何をインプットすべきかという決定権が親、教師にあることである。アウトプットの特徴は試験(主に筆記)で成果を測定されることである。つまり何をインプットしどのようにアウトプットすべきか、という決定権が学習者にはなく教師側に存在するのである。
何を勉強したらいいのか、それをどうアウトプットしたらいいのか、右も左もわからない子供に対してはこのアプローチしかとりようがないだろう。
しかし卒後学習ではこの教師の存在が一気に消失する。つまり何をインプットしたいのか、どのようにアウトプットしたいのか、学習者が自己決定しなければならない。やっとそうする自由が与えられるとも言える。
とはいえ卒後学習は完全に他者の存在と無関係な自由な決定の世界ではない。現実的には、何を学習すれば自分の社会生活の満足度が上がるのかという選択基準が重要になってくる。働く人にとっては年収、ワークライフバランス、職業満足度などが重要なテーマとなる。
簡単に言えば、卒前、卒後いずれの学習においても、常に審判者とでもいうべき存在がつきまとっている。卒前においては親、教師であり卒後においては社会(労働市場)がその主役である。
このような他者からの評価・報酬と全く無関係に、とにかく自分が好きだ、楽しいという気持ちで取り組める学習もあるだろう。それ自体が目的となった学習である。そういうものを持っているのは、人生において他者の評価に揺るがされない自分の空間を確保することにつながり、素晴らしいことだと思う。しかしこれは経済的、社会的にそうするだけの余裕がないと難しいことである。そして今、日本社会は余裕がない方に向かっている。
学校に通う子供にとってはある意味、親、教師、学校という存在の大きさは圧倒的であり、これれらが課してくる価値観と別の世界を生きることはほとんど不可能である。そういう生き方は非行、不登校、問題行動と一蹴されてしまうだろう。
しかし大人になった自分の目からすると、学校の教育、価値観というのは、社会での評価に比べると非常に狭く特殊な密室のように見える。実際の社会では人に何らかのサービスを提供することが仕事なのであるが、その活動の種類は、学校の科目などとくらべて比べて桁違いに豊富であるのは言うまでもない。文字通り星の数ほどあると言えるし、そこでは画一的な尺度上での順位を争うことよりも、自分に適性があることを探りあてる能力の方が決定的に重要である。
学校を構成している人間、教師という人たちは、一般社会からするとかなり特殊な人たちである。様々な職業経験を経て大学教授になったような人はもちろんそうではないが、大学や大学院を卒業してそのまま学校の教員になったような人たちは、学校と無関係な社会というものを経験していない。彼らにとっては生徒の父兄との交流が一番の社会的視野を広げる職業経験なのではないだろうか。
卒前学習と卒後学習には大きな溝がある。わかりやすくこれが出現するのは、大学を出たけれど仕事がない、仕事に何のメリットもない、下手をすると奨学金という名の借金だけが残り人生計画が狂ったなどという事態である。これは大変な問題である。
学校側もこうした事態を避けるために、社会の動向を研究し、多少はカリキュラムを変えてくるだろう。しかしその変化は非常に遅いしそもそも変われるという保障もない。なぜなら同じ教員で対応することを前提としているからである。教員自身が変化に対応できるのか未知数だし、変化することを望んでいるのかどうかも疑問である。秩序が変われば教員自らの序列や立場が危ういからである。教員も第一には自分の生活のためにやらざるをえないわけだから。
個人的には学校側には期待できないだろうと思う。学校を選択する生徒の側が賢い選択者となることを期待する。要するに卒業してもメリットのなさそうな学校を受験したり入学したりするのを辞めることである。卒後との連続性の中で進路も選ぶことである。
とりあえずビールを頼むように、とりあえず行ける学校に行っておくという考え方もあるだろうが、昨今そのとりあえずの一杯のお値段が元が取れないものになってきている。
勉強ならなんでもやって損にはならない、は嘘だろうと思う。それなら読んで無駄になる漫画も遊んで損になるゲームもない。勉強は貴重な人生の時間とエネルギーの投資先である。投資先を賢く見決める目を養う必要があるだろう。
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