近藤誠理論とは何か

クローバーの社

近藤誠という医師がいる。
元慶應大学病院の勤務医であり専門は放射線治療。
現在は近藤誠がん研究所というのを立ち上げてそこでがんのセカンドオピニオン外来をしている。料金は30分3万円ほど。

医師でありながら「がんと闘うな、放置せよ」「抗がん剤は効かない」「手術は命を縮めるだけ」「検査も不要」などの医療否定本を多数出版している。TVにも出演する。
この方の影響で、がんの検査・治療を拒み、本当に放置を選ぶ患者も増えているという。

彼の主張の根拠となっているのは独自の「がんもどき理論」というもの。
がんには最初から遠隔転移している「本物のがん」とほっておいても臓器転移のない「がんもどき」があり、「本物のがん」は手術や抗がん剤治療しても根治できないしむしろその副作用で命を縮める、「がんもどき」は治療せずに放置しても命にかかわらないので放置すべきと説く。

それが真実にも関わらず、実際にはほぼ全ての医師が検査や治療をやっているのは、医者や製薬会社ががんで儲けようとしているからだ、という断罪が続く。

彼に反論する医師の著作もある(勝俣範之医師、神前五郎医師など)。
現状においては反論を出すこと自体が有意義なことであろう。しかし一般の読者からすると何かすっきりしないというか、結局なにが正しいのかわからず混乱が深まるばかりなのではないかという印象を持っている。

そこでこの問題に対して、個別の癌や個別の薬がどうなのか、というのとは視点を変えて、そもそも現代医学において見解(定説)というのはどのように形成されるのか、それは患者にとって何を意味するのかという、一般論的な視点から考察を加えてみたいと思う。

現代の医学ではevidence based medicineが規範とされている。
直訳すればエビデンス(証拠、根拠)に基づく医療ということである。
その実態は何かということだが、要約すれば「統計学」に基づく医学的判断ということである。

では統計学とは何かということになるが、統計学は数学の1分野であるが、1つの思想でもある。
どういう思想かといえば、過去に起きたことは現在もまた未来にも繰り返すであろう、という仮定に基づいて、過去を調べることを通して未来を予測しようという思想である。

実際、これは誰でもが日々当たり前にやっていることである。
誰もがこれまでの自分の経験から、現在を理解し、未来を予測して意思決定をする。
今日は雨が降りそうか、この仕事はうまく行きそうか、この人間関係はどうなりそうか、日々いろんなことを予測して人は生きている。
それでなんとか生きていけるのは、過去のパターンが今後も使えるだろうという仮説が、概ね正しかったからである。

現代の医学が統計学に基づくというのは、結局のところ、過去にどんな患者がいたか、その人達にどんな治療をしたらどんな結果になったかという膨大なデータをひたすら記録し、それを整理し観察して得たパターン認識に基づいて、今目の前にいる患者さんの治療方針を決めましょうということである。エビデンスというのは要するに過去のデータのことである。

だが自分と同じような人間というのは過去にどのくらいいたのだろうか。その人は同じ病気にかかったのだろうか。運良くそんな人がいたとして、その時の医療と現在の医療は同じなのか、言い換えれば治療は同じなのだろうか。そもそも過去に起きたことは自分の身にも同じように繰り返すのであろうか。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。

医学的判断の正確性は、過去に似た症例のデータがどれだけあるのかということに依存するし、どれほどデータを蓄積してみても確率的にしかものは言えないという事実に突き当たる。

この確率の意味は、今、ある人がある治療を受けた場合、利益のある確率が何パーセント、不利益のある確率が何パーセントという形でしかものが言えないということである。

どんな検査であれ、治療であれ、それを受けることによって、起きる結果は3つである。
結果的にみればであるが、(1)やらなくてもいいことをやってしまった(過剰診断、過剰治療)、(2)やったことによって患者にメリットがあった、(3)やってはみたが効果がなかった(治療の失敗)、の3つである。
どんな医学的介入であれ、この3つを伴わないものはない。それが医学がエビデンスに基づくということの意味である。

確率という学問はそもそもギャンブルの確率を計算するところから発生したが、医学もまた同じ枠組みでしか語ることができないということである。
つまりどんな検査や治療であれ、人が医療と関わる時、得する可能性と損する可能性が常にあるということである。

近藤誠理論の本質は、この損する可能性だけをことさら強調し、「医療と関わらなければ損する可能性はゼロですよ」、と言っているに他ならない。
それはその通り、正しい。
そしてこれが一般社会にこれほど受けているというのは、多くの医者は、この医療には常に損する可能性があるという点を、あまり説明してこなかったことにも一因があるのだろう。
それは医療の提供者が言いたくなかった部分もあるだろうし、医療の受け手である患者も聞きたくなかったという部分もあるだろう。

だが、これは理論的には辻褄があっていたとしても、実存的には問題がある。
大きな治療を受けるかどうかの決断をしなければならない患者、近藤誠の例で言えばがん患者というのは、ほっておけばそう遠くない未来に死亡してしまう確率が高いからこそ、リスクを伴う決断をせざるをえないのである。

誰だって負わなくていいリスクなど負いたくないだろう。
利率が同じなら、リスク割れのある金融商品よりは、元本保証の方が絶対にいい。
しかしその利率で運用していたら老後の生活が成り立ちそうもないとなれば、リスク商品に手を出さざるを得ないこともある。医療の問題は要するにそれと本質的に同じ問題である。

だから、検診受けるか受けないか、治療受けるか受けないかということには、専門家が一方的に答えを出せる問題ではそもそもないのである。
それは株を買うべきかということを証券会社の人が勝手に決めてしまうのと同じである。

どんな未来を自分は望むのか、そのためにどんなリスクは許容できるのか、できないのか、その落とし所は一人ひとりが見つけていかなければならない問題なのである。

「医療と関わらなければ損する可能性はゼロです」と言うのは良いが、「だから医療と関わるな」というの余計なお世話であろう。
「医療と関われば得する可能性が高いです」と言うのも良いが、だからといって医療を受けなければならないわけでもない。

医療者に求められているのは、適正なデータの開示と、それに基づいて患者が意思決定をするプロセスを支援することなのだろうと思う。

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