スリランカのテーラワーダ仏経僧、スマナサーラ長老の著作です。
本書では、道徳、慈悲、智慧の3つのテーマが語られています。道徳は行動、慈悲は感情、智慧は知性のレベルの話と考えるとこれは仏教に限らず、人間を考える上での3つの次元だと言えるでしょう。
スマナサーラ長老の著作では、道徳では戒律、慈悲では慈悲の瞑想、智慧はヴィパッサナー瞑想が、それぞれ具体的な実践(修行)の方法として説かれています。
これら3者の関係性がはっきりしませんでしたが、本書を読んで少しはっきりしました。
仏教は、人間の心の苦しみを解決するにはどうしたらいいのか、ということが出発点であり究極テーマです。
これに対する最終的な回答が「悟り」ですが、これは智慧の世界の話です。知性、認識のレベルの話ということです。
仏教では人間の苦しみの根本原因は、人間の認識の歪みだと言っています。だから認識的な歪みをなくす(=悟る)、ことによって苦しみがなくなるのだと主張しています。
しかしそれが苦しみの問題に対する究極的な回答であったとしても、それで人間の感情や行動という次元が消滅するわけではありません。どんな正しい認識に到達しようとも、生きている限り、感情や行動のレベルの問題はあり続けるということです。
おそらく仏教は、知性レベルでの悟り、感情レベルでの慈悲、行動レベルでの善行為の3者が同一だと考えているのだと思います。知性のレベルでの悟りに達すれば、残りの2者はいわば演繹されると考えているのだろうと推測します。
ですから仏教的には究極的には悟りを目指すべきということになります。あと2つは必然的な結果ですから。しかし問題は悟りというのは認知のレベルの話ですので、かなり難しい、時間と労力が必要という点です。難しい学問を理解するのが難しい、というのと同種の難しさがあるわけです。
そこで順序はあべこべですが、結果である2者を先にやってしまおうという教えが出てきます。それすれば感情と行動という、人間が実際に生きていく上で他者と関わる部分はより速く、表面的には正解の状態に達するわけです。
本当にわかっているのと、わかったふりをしているのは違いはありますが、他者からはその違いはわからないでしょう。つまり社会的生活のレベルに限定すればそれでかなりの問題が解決するだろうという論理です。
さらに悟り=慈悲=善行為であるなら、慈悲、善行為のどちらか1つだけでも自分をその状態に近づけることで、最終目的である悟りに到達しやすい心理状態が準備できるという考えもあるようです。
私が個人的に仏教に魅力を感じるのは慈悲の部分です。全ての生命を別け隔てなく慈しむという思想は、心の琴線に触れるものがあります。
それに到達する道は仏教だけなのか、仏教がベストなのか、他宗教や無宗教で慈悲の気持ちを持つことはできるのか、などの問題は今後更に調べてみたいと思っています。


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