イグナチオの言葉に次のものがある。
「自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう。」
教会、教皇への忠誠を、自分の判断よりも優先することを宣言した言葉である。極端な主張のように思えるかもしれない。しかし信仰の本質を考える時、これは筋の通った考え方である。
聖書には「主1つ、信仰1つ、バプテスマ1つ」という言葉がある。
しかし信仰というのは、単なる自分ひとりの信念、思い込みとは何が違うのか。教会というのは本当のところ、別々の考えを抱く人間の単なる集団ではないと何故言えるのか。絶えず理解も感情も変化していく自分の中にあって、信仰が変わらないものであることなどありうるのか。
こうした問に真剣に答えようとする時、変化と限界を免れない自分を脱して、自分の外に権威を置くというのは、非常に自覚的で合理的な考え方であると言えるだろう。(むしろこうした点、プロテスタントの方が曖昧なのではないだろうか。)
私にはイグナチオという人は妄信的な人ではなく、徹底的に論理的な人であったように思える。
しかし自分の人生において、教会が白と言おうとも、どうしても黒に見える、その思いやそこから生じる決断を覆せない、という体験をする人はいないのだろうか?
そのような体験をする時人は、やはり自分より教会を信じるのか、教会を離れ自分の信じる道を行くのか、難しい岐路に立たされることになる。
どちらの選択が正しいのか。どちらが正しくてどちらが間違っているなどという問題ではそもそもないのか。私にはわからない。
教会を選ぶ人は、そのために人生の何かを犠牲にするのだろう。自分の選択を選ぶ人は、教会を失い、その空虚を埋める何かを必要とするだろう。
そういう岐路に立たされるのは大変な試練ではあるが、自分の本当の心がはっきりと明るみに出るチャンスでもある。立ってしまったら仕方がない、いずれの選択をされるにせよ、その人がそれからの人生をその人らしく、よりよく生き抜いて欲しいと思う。


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