貧困な親の子供も貧困になる「貧困の連鎖」は社会問題であると言われています。
しかし少し考えれば明らかなように、これは豊かな親の子供が豊かになる、いわば「豊かさの連鎖」と表裏一体です。
この現象は本当に望ましくないのでしょうか?
豊かな親は自分の子供もまた豊かで、社会において支配されるよりは支配する側の地位に就くことを願っているのではないでしょうか。
なぜ自分たち親の世代においは決着のついた社会的序列を、子供の世代においてリセットして序列付けをやり直さなければならないのでしょうか。
そのようなリスクを犯すことなく、自分たちの世代の序列(階級)を固定して、確実に自分の子供を有利にしたいと、豊かな親は心の底では願うのではないでしょうか。
もし親の世代の経済的格差が子供の世代に影響を及ぼすべきでないとするなら、親がどんなにお金を持っていても子供のために投資・消費しうる金額は誰しも一定というような制限を課すべきでしょう。
また親が死んだ時には相続というものがあるべきではないでしょう。その年に死んだ全ての人々の資産を、残された国民が平等に分配するような制度こそ是とされるはずです。
もちろん実際の世の中はそんなことにはなっていません。本気でこういうことを追求するなら、子供は親と同じ家に住んでいることさえできないはずです。なぜなら親の経済的格差は住宅環境の格差にも反映するからです。
突き詰めて考えてみると、子供の間に格差が存在すべきでないなら、まず親の間に存在する格差が消滅すべきということになります。親の間に格差がある限り、親と子が隔離して生活するような仕組みでもない限り、子供の間の格差が消失することはないからです。そして親と子をそんなふうに隔離する政策はどう考えても無理があるでしょう。
仮に遺伝子の乗り物として人間を考えるなら、豊かな親が、他人の子供の生存を(相対的に)弱体化させて、自分の子供の生存を(想定的に)強化しようとする考え方は完全に合理的だ、ということになります。
貧困は連鎖すべきではないという思想と、豊かさを相続させたいという思想は競争的関係にあります。主としてある人が社会の中で強者か弱者か、どちらの立場に置かれているかによって、その人の中で優勢な思想が決まるのだろうと想像します。
弱者は強者に富の分配を権利として主張するでしょう。強者はそれに応じるでしょうか。応じるかどうかは強者次第でしょう。その選択権を持つからこそ強者なわけですから。
結局のところ日本において子供の貧困があり、それが増加傾向にあるのだとしたら、日本の強者の腹の底にあるものは、公平な分配ではなく、自分と自分の子供達の保身なのだと考えざるを得ません。
もし強者の側の人間が本気でこの問題を解決したいと思うなら、自分の財産を分配して貧しい人と共有する道を選ぶでしょう。しかしそんな人は身近では見たことがありません。