食事が食べられなくなった時

クローバーの社

糖尿病が国民病である時代、多くの人にとっては、食べ過ぎやダイエットが関心事であろう。
しかし、様々な理由で食事ができないことが問題になる人々もいる。

若い人の場合は主に精神的な理由である。
こちらは精神科、心療内科での対応となる。
患者の多くは若い女性、母親との心理的葛藤が背景にあることが多いと言われている。

高齢者の方で食事ができなるケースはもっと多い。
私が日常的にみているのはこちらなので、こちらについて誰もが知っておいて損のないだろうことを書いてみたい。

高齢者が食事ができなくなる理由は主に2つ。
1つは食欲がないこと、2つは飲み込みが悪くて食べたくても食べらないこと、である。
2つの理由を併せ持つ場合もある。

食欲がなくなるのは、認知症の進行に伴うことが多い。
日常の活動が低下し、意欲が低下し、いよいよ食欲もなくなってしまうパターンが典型的である。
認知症の治療で対応するのが基本であるが、認知症自体の進行を止める手段がないため、最終的には避けられない事態である。

飲み込みが悪いのは、主に脳卒中の後遺症である。
食欲があれば飲み込みが悪くても本人は食べるが、むせて肺炎を繰り返すことになり、病院から食事を制限されるパターンが多い。
食べることに対するこだわりは人様々であるが、家族に食べさせてあげたいという思いが強い場合、善意からであるが、無理に食べさせて肺炎を繰り返してしまうケースも少なくない。

いずれの理由にせよ、口から食事を摂ることが難しいとなった場合、別の方法で栄養摂取を続けるか、そのまま自然の経過に任せるか、の二者択一を迫られることになる。

別の方法には、いくつかの方法があるが、代表的なものは、胃ろう、経鼻胃管、中心静脈栄養である。

胃ろうとは、胃と皮膚を直通する穴をおなかにあけて、外から管を通して流動食などを流し込む方法である。
経鼻胃管とは、鼻から胃に達するチューブを挿入し、そこから流動食などを流し込む方法である。
中心静脈栄養とは、太い静脈(在宅でやる場合は主に鎖骨下、肘)に点滴のための装置を埋め込んで、そこから栄養価の高い点滴を毎日繰り返す方法である。

その他、バリエーションはあるが、日常的に使用される頻度はこの3つが多い。

お父さん、お母さん、お爺さん、お婆さんなどが食事がとれないということで入院、栄養状態を立てなおしてもらって、そこに家族が呼ばれ、今後は食事は難しい、どうなさいますか、ということで話を切り出されることが一般的である。

さて、もし上記3つの選択肢を提示されたら、基本的には胃ろう、経鼻胃管、中心静脈栄養の順に望ましいと考えて頂いていい。
考え方は単純で、できるだけ生理的な、自然に近い状態がよいというだけである。
人間にとって胃から食べ物をいれることは、血管からいれるより生理的なことである。
だから、中心静脈栄養よりは胃ろう、経鼻胃管が望ましいということになる。

胃ろう、経鼻胃管の比較では、胃ろうは最初に胃に穴を開ける処置が大変であるが、一度作ってしまえば患者の負担は軽い。
むしろ常に鼻から喉を通して胃に達するチューブ(経鼻胃管)の方がよほどうっとおしい。自分で抜いてしまう人も少なくない。

むろん、患者個別の状態によって考慮しなければならないことは違うので、上記原則はあくまで原則、最終的には個別に判断していかなければならないが、誰もが知っておいてよいことだろうと思う。

さて、食べられないから、何もしない、自然の経過に任せるという方法もある。
そのままにするとそう長くない先に、栄養失調で、有り体に言えば餓死することなる。
多くの人と会話した経験から言うと、若い人、元気な人は、もし自分が食べられないような状態なったら、こちらを選びたいと言うことが多い。
また、医療関係者もこちらでいいという人が多い印象がある。

だが、実際に自分の家族がそうなった場合に、なかなかこの選択肢は選べないことが多い。
日に日にやせ衰えていく家族を見ていれないのである。
その心境は痛いほどよくわかるし、人間自分が元気な時に考えることと、身内が危機に陥った時に選ぶ選択肢が違うのは当たり前のことであろうと思う。

ちなみに医療費で言えば当然、胃ろうやら何かをすれば、何もしないよりお金はかかる。
医療費、福祉費の増大にあえぐ日本においては、何もしないを推奨する方向に国は舵をきっている。
今後、そういう方向での何らかのプロモーションに知らず接する機会は増えるであろう。

「食べれないからどうする?」という考えたこともない(あるいは考えたくもない)ようなことを突然聞かれ、医者にいろいろ選択肢を提示されて選んでくださいと言われても、「わかりません」としか言いようがないのが普通の反応である。

しかし高齢化の時代、この問題に無関係でいられる人はほとんどいないと思われる。
当事者になった時、この記事が考える材料として役に立てば幸いである。

コメント