宗教を語る時、実際には宗教そのものではなく自分の宗教体験を語っているにすぎないこと
宗教との接触が人に何をもたらすのかは、「宗教の性格」と「受け取る人間の個性」の相互作用によって決まる。つまり同じ宗教に接しても、それがどんな結果を生み出すのかは、受けとめる側の人間の資質によって変わる。
信者が何人いるとか、開祖の名前はなんであるとか、単なるデータではなく、宗教の本質について自分の見解を述べるとなると、その半分は自分自身について語っているようなものである。客観的な宗教の分析というのは成り立たないだろう。
だから私がキリスト教や仏教について語るにしても、それはキリスト教そのもの、仏教そのものを表現しているわけではなく、より正確に言えば、私のキリスト教体験、私の仏教体験を語っているだけである。
以上の制約を明らかにした上で、私の体験から両者を考察してみたい。
キリスト教は歴史的に社会正義を追求し、仏教は科学的に心の平安を求める
本質的に両宗教は性格が異なっている。思考法、関心の対象が異なると言っていいだろう。
キリスト教の思考法は歴史的である。そして関心の対象は社会正義である。
歴史的であることは聖書と教義をみればわかる。聖書は体裁としては歴史書である。神と人類の交流の記録である。それは歴史上のある時点にただ一度きり起こったものであり、そういう形でしか知ることも伝達することもできない。科学のように自分の実験室で、再現、追試することなどできない。歴史的ではあるが、客観的に事実のみを記録していくことを歴史するなら歴史ではない。記述の核となる何らかの出来事はあったのだろうが、主要なのは単なる出来事ではなく、その信仰的解釈、意味づけだからである。
関心の対象が社会正義であることは、旧約聖書の中心が律法であることからわかる。旧約聖書と新約聖書を断絶した世界と考えることも可能だが、両者を連続的に考えるなら、社会正義あるいは神の正義というものを究極的に追求した先に、愛とゆるしの思想に飛躍したとみることになるだろう。ここで言う飛躍とは、愛の立場から正義を理解することは可能であるが、正義の世界からの発展として愛は自動的には導き難いという意味である。
仏教の思考法は科学的である。そして関心の対象は心の平静である。
科学的であるというのは、瞑想を中心とする体験が核となっていることからわかる。同じ方法で瞑想したり、何らかの結果が出るかどうかは、誰でも追試可能である。ある部分だけなら、仏教を解体して単なる科学として再構築可能だろう。しかし仏教の本質は瞑想で血圧が下がるというレベルに留まるものではなく、輪廻・業・解脱で語られる世界観の中で語られる無常・非我という哲学的直観である。この部分は科学ではない。仏教は科学的ではあるが、科学ではない。そうある必要もない。
関心の対象が心の平静であることは、そもそも人生を苦とみてそこからの救済をめざしたという釈迦自身の出発点からして明らかである。
以上を表にまとめると以下のようになる。
| キリスト教 | 仏教 | |
| 思考法 | 歴史的 | 科学的 |
| 関心対象 | 社会正義 | 心の平安 |
| 次元 | 社会 | 個人 |
そもそも個人と社会は連続しているので、キリスト教は社会から個人へ、仏教は個人から社会へと展開する
キリスト教は社会の次元、仏教は個人の次元に主座をおいている。もちろん社会と個人の両次元そのものが連続性をもつから、どちらの宗教にもどちらの次元もある。
社会正義に始まるキリスト教は愛という心の世界に到達しているし、心の平安に始まる仏教もまた慈悲という社会的視点に到達している。しかし出発点に立つのは比較的優しいが、最終到達地点に至るのは難しい。三つ子の魂百までではないが、出自というものは性格に色濃く残っている。いずれかの宗教を学んだ場合、その出発点の美点は身に着けやすいが、終着点の美点は身につけにくいかもしれない。
両者の性格の違いは得意分野の違いにも現れる。
キリスト教は、社会正義、福祉、公平、格差問題、弱者救済などの分野で力を発揮しやすい。はじめからそこが関心対象であり、そこに人間の問題と解決を見出すからである。
仏教は、個人の心の悩みに強い。もともと釈迦自体が自分の心の悩み苦しみをなくすために修行した点からも明らかであろう。様々な感情が分類、分析されており、各感情で苦しむ場合の原因と対応という形で教義を利用しやすい。
愛と慈悲
キリスト教は愛の宗教と呼ばれるが、その愛は人と人の正しい関係(正義)を突き詰めて行った先にある究極の正義としての愛である。ユダヤ教の律法を、キリストの愛で完成するという発想がこれを物語っている。キリスト教の愛は、自分のなかにある素朴な思いやりとか愛着とかに着目し、これを広げていくという次元に留まるものでない。
キリスト教の思考の特徴は、人と人の関係を考える中で、神の世界に飛躍することである。そして神の視座から私とあなたの関係、その正義を考えていく。キリスト教の愛は、イエスの生涯を自分と関係づけるという神秘的な想像を経ずしてはその本質に辿り着けないであろう。その本質は自己愛ではなく、あくまで神という絶対的な他者の働きである(イエスの死が意味するのは、神が神ではない人間を愛したことであって、神自身を愛したことではない)。その応答としての人間の愛も自己愛ではなく、自分ではない他者のための働きである。自分の外の世界を信頼し、自己を投げ込むようなものであろう。根本に絶対的他者としての神があり、絶対的他者であるだけに、人間が素朴、直観的には理解できないものである。
仏教の慈悲は、苦しみの原因である貪瞋痴をなくすべく、瞑想を重ねた先にある解脱の境地で沸き起こってくるものと説明されている。その意味は、無常・非我の論理でいけば、全てのものは相互依存的につながっておりいわば常に一体であり、そこにどこからどこまでという区切りをつけることから話がおかしくなってくるわけで、もしそのように世界(自分)を体感すれば、自分に向かっていた自己愛が、全ての存在に及ぶようになるのは自然な考え方であろう。自他の区別を乗り越えることによって拡大(変容)された自己愛が慈悲なのではないかと考える。実際に慈悲の瞑想の過程は、自分の幸せ、親しい人の幸せ、生きとし生けるものの幸せと、順番に範囲を広げていく。自分の悩み苦しみの問題を考えぬいた先に、思考の変化があり、思考の変化にともない自己愛が慈悲に変わるということであろう。
日本人の宗教観とキリスト教の関係
宗教というと個人のもの、心を扱うものというイメージが日本人には強いかもしれない。これにあっているのは仏教の方であろう。キリスト教は最初から最後までもっと徹底的に社会的である。政教分離というのがあるが、政教分離を強く意識せざるを得ないほどに社会的である。
キリスト教の社会的性格が日本人の宗教への期待とマッチしているかどうかはまた別問題である。仏教に期待されるような心の平静のみを求めてキリスト教の門をたたくことはできるだろうが、キリスト教の側からすればそういう関わり方だけにとどまり、現実社会の中での変革につながらないとすると、キリスト教としての本来の威力を発揮できないことになるだろう。
両宗教とのつきあい方
自分の持って生まれた考え方、感じ方という資質があるので、両宗教との生まれながらの相性というのはあるかもしれない。またその時に自分の抱えている問題が社会的か個人的かということでもどちらで解決を得やすいということもあるだろう。
しかし一般的には、両宗教は対象的な性格をしているので、両方学ぶことで相補性が期待できると考える。
但しその場合、どっちが正しいか、どっちが優れているか、という選択的な姿勢で勉強に望まないことが重要であろう。この態度では相補性は期待できない。
それぞれの視点、長所短所があるという冷静な姿勢で強みと弱みを見極めて、自分の人生に生かしていくという心構えがよいであろう。
人は仏教徒にもキリスト教徒にもなれないであろう。自分自身になるのみである。
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